◎江戸四方山話 其の一 [正月]




正月 {睦月(むつき)、孟春(もうしゅん)、 早緑月(さみどりづき)}

 当然、当時は 陰暦(旧暦)で、ちなみに1999年の元旦は、旧暦の11月14日です。 時代小説を読んでいて、この旧・新暦の違いは色々な場面で違和感を感じる所ではあります。 ちなみに、旧暦では1〜3月が「春」ですが、これは新暦で言うと3〜5月に当たります(正確には若干ずれます)。
年賀状の「新春」「迎春」等に違和感があるのも納得できます。

◇庶民の正月
 本当は晦日からの一連の暮らしから考えたほうが実感が湧くのですが、 正月をスタートとしてしまいましたので中途半端な書き方に成ります。

 江戸では七日までが
松の内 、所謂、正月 ですが、元日の朝には、一家の主人はまず井戸水を汲みます。(「 若水 」のことです)その年の恵方を向いて、年の市で買った新しい桶で汲みあげ、身を清める。 (これは家内に井戸のあるような商家では考えられますが、長屋住まいの本当の庶民が行っていたか良く分かりません)

 その後、家族で
屠蘇を祝います が、この「屠蘇 」というのは、当時の医者が患家に歳暮の挨拶として配ったもので、年寄りや子供のいる家ではたいてい買わずに住んだそうです。 これを飲めば死者も蘇るといわれた薬 です。そのなごりで、現代も元日のお祝いに飲むのですが、あくまでもこれは薬ですから 飲みすぎてはいけません。

 その後、雑煮などの正月のお膳をいただきますが、これには
祝箸 がついたそうです。

正月と言えば
初日の出 ですが、 これは 深川洲崎 の初日が有名だったそうです。他にも 神田明神境内、芝高輪の海岸等 も人気がありました。ただ、商家では、夜通し商売やら正月の準備やらをしていましたので、 元日はみんな朝寝坊だったという話もあります。

 この時間には、
大名の年賀登城も すでに始まっておりますが、この辺は次回書いて見たいと思います。

△時節川柳

箒持つ下女は叱られ初をし({川柳評明二礼」より)

 松の内は家の掃除をしてはいけないことに成っていたそうです。だって、福を掃き出 してしまうから・・・・だそうです。

◎江戸四方山話 其の二 [薮入り]



年賀登城

 元日の朝は庶民の年賀と同じようには大名の年賀登城がありました。格式により三ケ日に分けられていました。
元日・・一門方、譜代大名、諸役人
二日・・国主、城主、諸役人
三日・・諸大名衆之嫡子。
この様な順番です。登城は当日の卯の半刻(午前7時頃)から始まったそうです。

 
◇薮入り
 一月十六日は
薮入り(やぶいり)です。当時の奉公人には土曜や日曜などが ありませんし、当然、有給休暇など考えられませんでした。そんな彼らが待ちに待っているのがこの薮入りです。公に認められた休日ですから、彼らは喜び勇んで親元へ帰りました。
 薮入りには幾つかの意味が合って、奉公に出ていた子供たちが親元へ帰る意味のほかに、嫁にいった娘が親元へ帰る意味、武家の屋敷に奉公している娘が親元へ 帰る(
宿下り宿下がりともいう)意味もあります。

 当時の子供たちは大体十二歳くらいから各種の技術を持った親方や商店へ奉公に出ます。奉公は住み込みですから当然親元を離れることになります。当時では 当たり前のことですが、やはり子供や親にとっては大変なことだったと思います。 そんな薮入りですから、まず奉公人を返す店の主人の方は、小遣いを渡し手土産を持たせて帰します。その子を待つ親の方でも子供の好きな食べ物やらを用意して歓迎するのです。そこここで親子水入らずの場面が見られたことでしょう。子の成長がうれしい親と、親の背中に忍び寄る老いを感じる子。会っている時間は限られるだけに、濃密なひとときだったに違いありません。
 いろいroな事情で故郷に帰れない子供もいます。遠く上方から出店として江戸の店に奉公している場合などは一日の休みではどうしようもありません。一人で、あるいは同じ境遇の友と、主人にもらった小遣いを懐に歓楽街に出て、芝居小屋をのぞき食事をする。それはそれで楽しいこたですが、やはり寂しさは隠せなかったでしょう。

 現代日本でもついこの間まであった集団就職の中学生の様子とオーバーラップするものがあるようです。

○時節川柳
「もうよかろうと薮入を母おこし」
 薮入りで帰った子が日ごろの疲れからか泥のように眠っている。その心中は、寝させてやりたい思いと、手作りのごちそうを食べさせ話をしたい思いとの間で揺れる。

「薮入りに母はお飯の水を引き」(柳留多二篇)
 子供が帰ってくる日のご飯は、子供の口に合うように少し硬めに炊くのが母親の心尽くし である。夫婦だけの時より水を少な目にしてかまどに掛ける。


 

◎江戸四方山話 其の三 [梅見]

umei
梅見

 梅は早春から咲き出し、寒さの中で薫り高く咲く姿から格調の高い花とされていました。そのため、神社仏閣に多く見られたそうです。とくに菅原道真が愛好した由来から
湯島天神(文京区)
亀戸天神(江東区)・・藤でも有名ですが梅屋敷でも有名
向島百花園・・白髭神社の裏手に亀戸梅屋敷に対抗して作られた
蒲田の梅園・・現在の蒲田梅屋敷公園には昔日の面影を見出せないそうです

等には多くの観梅の人々が集まったそうです。 他にも観梅の名所は各地にあったそうで、梅見茶屋もあり、錦絵の題材にもなっていたそうです。

◇臥竜梅
 亀戸天神の裏の梅園から取れた梅の実は将軍家に献上されたいましたが、ここには有名な梅の古木「臥竜梅」もありました。
臥竜梅というのは、枝が延びて垂れ下がり地中に入ってまた枝を伸ばしている様子が竜が寝ているように見えることから、六代将軍吉宗が命名した(水戸光圀という話も)ということです。 また、これを広重が「名所江戸百景」に描いたものをゴッホが模写したことでも有名です。


 梅一輪一輪ほどのあたたかさ(嵐雪)     
    
 梅が香にふっと句の出る茶店かな

○時節川柳
「京都では梅を盗まれたと思い」」(柳留多二十三篇)
 道真の愛した梅が道真を慕って筑紫へ飛んでいったことを川柳にするとこうなります。


◎江戸四方山話 其の四 [花見]

hanami 花見

 日本人の桜の花好きは今も昔も変わりません。 雛祭りが終わり、花が本格的になると、 上野山内をはじめとして、各地の花の名所がにぎわいます。
山内では、特に、秋色桜 (しゅうしきざくら)が有名ですが、早咲きから遅咲きまでの各種の桜が楽しめたそうです。 その他の土地では  隅田川堤
 飛鳥山
 御殿山
 小金井堤
 吉原夜桜
などが有名で、花の時期には多くの人出 がありました。
 桜のほか、桃・梨・山吹・つつじなども咲き揃い、この時期はまさに江戸の観光シーズンであったといえるでしょう。 また、水の温みも進み、潮干狩りや釣りに出かける人も多くなりました。(海水魚採集に出る人もいたのでしょうか)

 井戸端の桜あぶなし酒の酔     
    今も昔も桜には酒でしょうか。     

○時節川柳
「たれとなく起きな起きなと花の朝」(柳留多二十三篇)
 待ちに待った花見の朝。朝も暗いうちに起き出して、周りの人を起こしにかかる。
「白壁を両の手で塗る花の朝」(玉柳)
 女の人たちにとってもこの日は特別、化粧の仕方も念入りになる。

◎江戸四方山話 其の五 [夏のころ]

ただいま準備中 夏支度

 現代(いま)と違って、寒ければ寒いなりに、暑ければ暑いなりにすごすしかなかった江戸のころは、冬の寒さより、夏の暑さをどう過ごすかのほうが庶民の知恵の働かせ場所でした。

初夏のころになると、近江の商人たちが「萌黄の蚊帳」(もえぎのかや)を売りに参りました。萌黄というのは、「黄色味の緑」のことですが、この色だと汚れも目立たず重宝されました。
ただ、麻で出来たこの蚊帳は庶民には高価過ぎたもので、木綿や紙製のものも有ったようです。さらに、それも買えない裏長屋の住民は「蚊遣り」(かやり)をたいて、しつこい蚊や夏の虫と戦ったのです。「蚊遣り」は香木の木片やおがくずをくすぶらせ、煙をたいて虫を追い払うものです。

(長谷川平蔵は、萌黄の蚊帳で熟睡し、相模の彦十は蚊遣りで咽ながら寝苦しい夏の夜をすごす・・・というような情景でしょうか) 

 いずれにしても、運河が網の目のように発達していた当時の江戸では蚊の発生も多くて大変だったろうと想像できますね。

初鰹

 江戸の人たちの初物好きは有名ですが、これが「初鰹」となると、ちょいとけた違いになってきてしまいます。
 江の島や鎌倉で取れたものを昼夜兼行の早舟や早馬で江戸へ運んでくる。これらが、江戸の粋人によって一分、二分は当たり前、年によっては二両とか三両で売り買いされたりしました。

俗に、「女房を質に入れても・・・」と言うくらいですから、本当のお金持ちが買っていたのではないようです。「勝魚」という字を当てていたくらいですから、武士の町江戸ならではの状態だったのでしょう。

 やがて、しばらく時間がたてばかつおの値段も下がってくるんですが、そうなると江戸っ子の見栄でしょうか、人気が落ちてきてしまう。なんだか、今の時代にも当てはまるような初物信奉では有ります。

夕涼み

 暑かった江戸の一日が暮れ、幾分かの涼しさが戻る宵の口。江戸の人たちの夕涼みの一時が始まります。
長屋の熊さんも悪仲間の八五郎と二人で掘割のそばへ縁台を出し、素人将棋をはじめました。団扇を片手に片肌脱いで、夏の宵を楽しみます。

その掘割がずっと下った大川(墨田川)では、大金持ちの伊勢屋の旦那が「いい涼み」の真っ最中です。幾人もの踊り子を乗せ、料理人まで連れての屋形船遊びです。川面に流れる風を受けながら飲めや歌えのまさにお大尽遊びです。
川に掛かる橋の上からはこれを羨ましそうに眺めている見物人が大勢います。そう言えば、夕べこの橋には川開きの花火を見物する人たちが大勢集まっていました。幾人も怪我人が出たそうです。「玉屋」「鍵屋」 の今年の花火は、江戸の口うるさい連中にはどちらの評判が高かったのでしょうか。

 おっと申し訳ありません。作者も聞いてはおりませんでした。今年の花火の勝負けは何れの時かに、また・・・。     

○時節狂歌
「たぐひなき玉や鍵やの上げ花火 驚かす目の両国の橋」
            (狂歌江戸名所図会)